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Miyajima News

2021年7月4日

彦根城の用務員さん

【令和3年(2021年)7月のコラム(第247号)】 


国宝彦根城天守閣とひこにゃん(撮影は築城400年祭の頃です)

1.彦根城の用務員さん

当社は私の祖父である宮嶋源次(げんじ)が長野県北部の小谷村(おたりむら)から彦根に出てきて興した会社だが、なぜそんなに遠くから彦根まで祖父が出てきたのか?そのことを書いておきたい。

祖父源次は、宮嶋常弥(つねや)と妻 里う(りう)の間に、五男三女の八人兄弟の7番目、五男として生まれた。
小谷村はアルプスの谷間で夏場でも手が痛くなるほど冷たい水が轟々と流れる姫川沿いにあり、当然のことながら地元には仕事が少ない。
そこで三男だった勘慶(かんけい)さんが彦根のオーミケンシの前身である製糸会社に就職することになった。
ちなみに彦根の製糸業は世界遺産の富岡製糸場から戻ってきた女工さんたちがルーツだそうである。
その兄を頼って祖父は小谷村から彦根に出てきて、兄の家のすぐ裏で小さな鍛冶屋を始めることになったとのこと。
つまり勘慶さんがいなかったら今のミヤジマは無かったわけである。もちろん私自身も・・・。

ところでこの歌舞伎役者のようなお名前の勘慶さん、お家が製糸工場の正門前にあったそうだが、昭和に入り戦争が始まると製糸工場が空爆に遭う危険が高まったため、彦根城のすぐ下のお堀端に家を移したらしい。
それがきっかけで彦根城「西の丸」にあった御殿の管理を任されることになった。
戦後、その御殿が奈良県吉野の洞川温泉に移築されることになり、その跡地に彦根市から家を与えられ、茶店をしながらお城の世話をすることになった。
つまり「お城に住み込みの用務員さん」のような仕事を任されることになったのである。
おそらく周りから信用があったのだろう。

勘慶さんの三男のFさん(私の父からみると従兄弟)は今もご健在でお堀端の家にお住まいだが、小学校の4年生から高校を卒業するまでの間、彦根城天守閣のすぐ西隣にあった家(茶店)から毎日石段を降りて登校し、帰りはまたその石段を上がって学校に通っていたとおっしゃっていた。
それはなかなかできない経験だな・・・と思う(笑)
残念ながらその茶店は今は無くなって観光客用のおトイレになっているが、私も子どもの頃は時々そこに遊びに行っていた記憶があり、とても懐かしく思う。

というようなことで、宮嶋家は長野から出てきた田舎者ではありますが、このようなご縁で当地で暮らさせていただいているわけであります。

勘慶さんと祖父のお墓は、彦根城のすぐ近くの禅寺に並んで立っている。
最近は月に一度、弟(弊社の常務)と二人でお墓参りをするようになった。
これはなかなかいいものだ。

どんな家にも、それぞれに歴史がある。
今を生きるわたしたちは、そのことを知り、ご先祖様に感謝の気持ちを忘れずにいきたいと思う。


現在の多賀町の工場は、彦根城近くの西馬場町、石ヶ埼町、栄町、
そして彦根市郊外だった小泉町を経て5か所めになります。

6月17日、NCネットワークさんに会社全景をドローンで撮影していただきました。
幸いとてもよいお天気に恵まれましたが、ドローンの性能の凄さにただビックリでした(@_@)


写真右下が当社、その左の大きな工場がキリンビール滋賀工場、
向こうにブリヂストン彦根工場、さらに向こうの方には琵琶湖が見えます。
多賀町の当社から琵琶湖までの直線距離は約7kmです。
来年(令和4年)には近くに名神高速道路の多賀スマートインターができるそうです。
ぜひいつでもお越しください。

└誠一郎のコラム