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Miyajima News

2006年12月25日

おかげさまで創立50周年・祖父 源次・祖母 ふみゑ

【H18年12月のコラム(第63号)】
1.おかげさまで創立50周年
創立50周年感謝の会でのスナップ
12月1日 創立50周年感謝の会でのスナップ
昭和31年12月20日、株式会社宮嶋弁棒鍛造所が誕生しました。
その後、平成5年に株式会社ミヤジマへと社名変更した弊社は今月、おかげさまで満50歳を迎えることができました。
これも偏にお世話になったたくさんのお客様、取引先様、そして社員の皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます。
また、なんと言っても弊社を創業してくれた祖父・祖母、そしてそれを無事引き継いでくれた父・母に心から感謝したいと思います。
今回は滅多にない機会ですので、創業者宮嶋源次・ふみゑについて、僕なりのエピソードを書いてみたいと思います。
祖父源氏 祖母ふみゑ
(1)祖父 源次
祖父は僕が3歳の時に亡くなったので、実は殆ど記憶がない。
唯一朧気ながらに憶えていることといえば、祖父が寝転がってテレビを観ている前を僕がヨチヨチ歩きで通り過ぎようとした瞬間、思い切り蹴飛ばされたことぐらいである(^_^;)
しかしこの記憶も定かではない。
祖父は150センチそこそこしかない小柄だったが、とにかく全身筋肉の塊という身体つきだったそうだ。
そして何でも自分で作ったり直してしまう根っからの職人、しかも大酒飲み・・・だから起きている間は仕事しているか飲んでいるかのどっちかしかないというような男だったそうである。
そんな祖父が彦根の地場産業であるバルブメーカからの相談を受け、苦労の末考え出したのが「宮嶋式弁棒鍛造装置」(特許第209965号)。昭和29年のことである。
従来の鍛造とはまったく異なる独特の製法で作られた弁棒は、地元彦根を中心に広まっていったが、たまたま大阪の或るバルブメーカに納めた1本の弁棒が、一人の男の目に留まった。
この瞬間こそが弊社にとっての「その時歴史が動いた」だろう。
その男とは大阪堺市にある全国有数の伸銅品メーカ、三宝伸銅の当時営業部長だった高橋準一氏(現 イゲタ金属会長)である。
高橋氏は弊社の弁棒を一目見たその瞬間、
「なんだこれは!見たことのない鍛造品だ!これは売れるぞ!」と直感したそうである。
弊社の鍛造方式とセットにすれば、三宝伸銅の真鍮棒が売れるというアイデアだ。
果たしてこの直勘は大当たりし、三宝伸銅の真鍮棒を使った弊社の鍛造弁棒は飛ぶように売れ始めた。
宮嶋式弁棒鍛造装置1 宮嶋式弁棒鍛造装置2
しかし宮嶋の工場はといえば、・・・とても量産に対応できるようなものではない。
そこで高橋氏は三宝伸銅の社長に必死に懸け合い、宮嶋の工場建設費として当時のお金で300万円という大金を出すことの了解をとってくださったのである。
しかし、ここからが問題だった。長野の貧乏田舎から出てきた源次は、もちろんそんな大金を手にしたことなどなく、おまけに大酒飲みときている。結果は・・・。
そう。毎日飲みに出てはその場の皆に酒を振舞い、家に人を呼んでは酒を飲ませ、「工場建設費」300万円はみるみる間に底を突いてしまった。
お金を渡したものの、なかなか新工場着工の声が聞けない高橋氏は当然焦る。
「いつになったら工場はできるのですか???」当然三宝伸銅本社でも大問題になっていった。
そしていよいよ、もういい加減完成しないことにはまずいという時、なんと源次が撒き散らした「大金」が生きることになったのである。
ある飲み屋のママから、ある町の役場を建て替えるのに、古い建物を取り壊すという話を聞いたのだ。さすがにマズイと思っていた源次は、本来の器用さを生かし、そのママの紹介で町役場の建物をそっくりそのまま譲り受け、自分で解体して工場として移築してしまったのである。たまたま、源次の長男である公夫が彦根市南部の小泉町に土地だけは確保してあったのでよかったのだが、突貫工事で完成した宮嶋の新工場は、もちろん「木造」!
しかも思いっきりレトロなムードを醸していたに違いない。
工場
手前に見えるのは後から建設した鉄骨製工場
奥に見えるのが元々の小泉「新工場
工場完成の吉報を受け、大阪から飛んできた高橋氏は、その「新工場」を見て、どう思ったことであろうか・・・(^_^;)
想像すると、申し訳ないと思う反面、失礼ながらやはり笑えてしまうm(_ _)m
兎にも角にも、以前に比べると、ぐんと広くなった宮嶋弁棒鍛造所は、その後はどんどん業績を伸ばしていったというわけである。
祖父の豪快さと、高橋準一氏の熱意・善意に感謝するエピソードです。
(2)祖母 ふみゑ
祖母は福井の出身で、元庄屋の家の末娘だったらしい。
僕が子供の頃、親戚に連れられて一度だけ祖母の実家に行った記憶があるが、確か立派な塀に囲まれた家だったように思う。しかし、祖母の上の兄弟は皆結構優秀な人だったそうだが、祖母だけはあまり出来がよくなく、大阪船場の問屋に奉公に出されたという話を祖母から聞かされたことがある。
縁あって大阪から彦根に来た頃に出会ったのが、祖父源次だったわけだが、上述のような豪傑というか無茶苦茶というか、そんな男だったため、相当な苦労をしたであろうことは想像するに難くない。
しかしとにかく祖母は面倒見のよい人だったそうだ。
平成初め、私が彦根に帰ってきた頃、地元のタクシーに乗ると、古い運転手さんから「あんたのおばあさんには昔世話になったもんや」と何度も聞かされたことがある。
僕が想像するに、飲みに行ってくたばってしまった祖父を家まで送り届けてくれたタクシーの運転手さんに、祖母は手厚くお礼をしたのではないか・・・そんな気がする。
そんな祖母に、僕には忘れられない思い出がある。
それは僕が小学校4年生だった年の6月16日のこと。学校の屋外清掃をしていた僕は、掃除の途中、仲良しだった女の子に嫌がらせをしていた。女の子は学校の横を流れる小川でバケツに水を汲んでいたのだが、僕はその女の子の手前の川に石を投げ、撥ねる水を女の子に引っ掛けて遊んでいたのである。今思うと情けない悪戯である。
しかし、やはり調子にのるものではない。僕の投げた石ころは、手元が狂って小川どころかクラスのN子ちゃんの額めがけて飛んでいってしまったのである。
「ゴツン!」という鈍い音と同時に、一瞬にしてN子ちゃんの額は真っ赤な血で染まった。
僕は真っ青になった。そしてすぐにN子ちゃんを保健室に連れて行き、先生が応急処置をしてくれるのを見届けると、すぐに職員室に行って担任のW先生に言いに行った。
W先生は大柄で、普段は非常に温厚なのだが、ひとたび怒ると非常に恐ろしい先生だった。
先生は僕の話が終わらないうちにむくっと立ち上がり、大きく分厚い手の平で思い切り僕をしばいた。4年生の僕は当然吹き飛ばされたが、僕は不思議と痛みを感じなかった。なぜなら、しばかれた痛さより、その時にW先生が怒鳴った一言、「お前はN子の大切な顔に傷がついたら責任が取れるのか!」・・・その言葉が深く胸に突き刺さったからである。
N子ちゃんは保健室の先生に連れられて病院に行き、何針かは縫ったそうだが、幸い顔にはキズがつかず、頭に包帯を巻いて学校に帰ってきた。
授業が終わり、僕は親になんと言っていいのやら・・・泣きたい気持ちで家に帰った。
しかし、そこには父も母もいず、祖母だけがいた。そしてこう言ったのである。
「誠ちゃんおめでとう。おかあちゃん、今日無事に男の子を産んだで。」
「ああ、そうやった!お母ちゃん、そろそろ産まれるゆうてたんや。俺はそんなめでたい日に、なんてことをしてしもうたんや!」僕は本当に母に申し訳ない気持ちになって泣きたくなった。
でも今日のことを内緒にしてはいけない。僕は祖母に今日してしまったことを話した。そしたら祖母は黙ってすぐにどこかに出掛けて行き、菓子折りらしいものを持って帰ってくると、「誠一郎。その子のおうちに連れていき。おばあちゃんと一緒に謝りに行こ。」と言ってくれたのである。今でもあの時のことは忘れられない。
私の大失敗の日が、偶然にも4人兄弟の末っ子である弟俊介の誕生日と重なってしまったわけですが、奇しくもその日が僕にとって、祖母の一番の思い出となる一日になったのです。
祖父も祖母も今は亡き人ですが、二人のおかげで今のミヤジマ、そして今の私があることを決して忘れず、三代目としてこれからも「誰にも負けない努力」で「ものづくり」「ひとづくり」「思い出づくり」に励んでいきたいと思います。
長文読んで頂き、ありがとうございました。
この道より
私の好きな武者小路実篤の詩「この道より」の色紙

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