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Miyajima News

2020年3月2日

父の功績

【令和2年(2020年)3月のコラム(第231号)】 


3月生まれの社員、全員集合(左から二人目が父)
当社では毎月その月生まれの社員さんと私とでお誕生会を開いています。

1.父の功績

私の父は昭和17年3月生まれで、今月で78歳になる。
私が昭和37年11月生まれで現在57歳なので、ちょうど二十歳ちがいである。
すなわち私は父が二十歳の時に生まれた子どもなのである。

なんで父はそんなに早く結婚したのか?
当社の創業者である祖父は長野県の小谷村(おたりむら)という、白馬村のすぐ北にある村落の出身で、彦根城の管理人をしていた兄を頼って彦根に出てきたそうだ。
そして昭和4年の4月に鍛冶屋(かじや)を始めたという記録がある。
その後、太平洋戦争を経て昭和31年12月に株式会社としてスタートしたのだが、その時父はまだ14歳の中学生だった。
息子の私が言うのも変だが、父の頭は悪くない。
だからもちろん高校に行きたかったと思うのだが、なにぶん祖父の会社が立ち上がったばかりである。
だから父は昼間は工場で汗を流し、仕事が終わってから彦根工業高校の定時制に4年間通い、19歳の春に卒業した。

ちょうどその頃、長野県出身の祖父が実家へ帰り、竹馬の友(こんな言葉は「死語」となりつつあるが!)の家に遊びに行くと、なんとそこにかわいい娘っ子がいたではないか?
祖父は「このコをワシの息子の嫁にくれ!くれなければ帰らん!」と言ってきかなかったそうである。
かくして長野県からはるばる彦根に渋々嫁いできたのが私の母であり、まもなく私が生まれたというわけである。

祖父はその3年後に58歳の若さで亡くなってしまったので、父は23歳の時に二代目として社長を引き継ぐことになった。
そんな若くして社長を継いだ父は、60歳になるのを機に社長をスパっとやめ、当時39歳だった私に社長を継がせた。
それまでの37年間、言葉にできないほど大変なことがたくさんあっただろうと思う。

当社は彦根城のすぐ近くの彦根市栄町で創業し、南彦根駅がある小泉町を経て現在の多賀町が4か所めとなる。
先日、ある手続きのために当社が今の多賀町の土地を取得した時の資料を調べていて驚いた。
昭和44年に取得したことは知っていたのだが、考えてみればその時、父はなんとまだ27歳の若さだったのである。
しかもそれは彦根城の近くから南彦根に本社移転した昭和43年の「翌年」である。
当時は南彦根でさえ今の駅も、スーパーも、消防署も、病院も、なにも無かった。
まして今会社のある多賀ははいうまでもなく、一面田んぼで、キリンビールもブリヂストンも、なにも無かった場所である。
そんな時に、そんな場所の土地を買って、将来に備えるなどということを、わずか27歳の若者が思いつくだろうか?
おそらく十人に相談したら十人ともに「小泉に移転したばかりで、さらに多賀とは、なに考えてるんや?」と反対されたことだろう。

しかも父は多賀の土地の代金を、4回にも分けて支払っていたことが資料を調べていてわかった。
今からみれば決して大きな額ではない。しかし、当時としてはかなりの大きなお金だったのだろう。

当時の父の苦悩の末の決断を想像すると、今、この多賀町で仕事をさせてもらっていることへの感謝の念が深くこみ上げる。
と同時に、月並みな言葉ではあるが、父の「先見の明」に、ただただ敬服するばかりである。大したもんだ、親父!


今から51年前、父が多賀の土地を買った時の契約書


現在の当社。正面のスレートの工場が左から第1、第2、第3工場。
その左の少し背の高い工場が第4工場、一番右が一昨年建てた第5工場。
(2019年9月撮影)
こんな環境のよい場所でものづくりをさせていただいていることに感謝し、
地域に貢献できる企業をめざしていきたいと思います。

└誠一郎のコラム