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Miyajima News

2011年2月12日

初心忘れるべからず

【H23年(2011年)2月のコラム(第116号)】



       



1.初心忘れるべからず



 人間というものは困ったもので、少しばかり慣れたり、調子がよかったりすると、

何もできなかった初めの頃や、大変苦しかった時期のことを忘れてしまう。いやいや、これは

人様のことというよりまさに自分自身のことで、僕は子供の頃からしょっちゅう親から

「お前はおっちょこちょいで、しかもお調子者やから気をつけなあかん」と戒められてきた。



 亡くなった三つ年下の弟とは子どもの頃からとても仲良しで、いつもいつも一緒に遊んでいた。

ある日卓袱台の周りを嬉しそうに走り回っていた弟に、足を出してこかしてやろうと遊んでいたら、

本当に足をひっかけてしまって弟が転んでしまい、その拍子に台の角で眉間を打ってしまった。

母から「何するの!」と怒鳴られしばかれたが時すでに遅し。その時の傷は彼の眉間にずっと

残る羽目になってしまった。それでもいつも「おにい、おにい」と僕の後をついてきてくれた弟・・・。

あの時のことを思い出すと、今でも申し訳なかったと泣けてくる。



              



 こんなことを書き出すとたまらなくなるので話を戻すけれども、弟に怪我をさせてしまったような

失敗を繰り返さないよう、決して調子に乗らず、用心せねばならないなあと思い出すたびに思う。



 徳川家康は六歳の時今川家の人質となるはずが祖父に裏切られて織田家の人質になり、

八歳の時に父松平広忠が家来に殺され松平家を継いだが、今度は今川家の人質になるという、

ずっと人質続きの辛い幼少期を送った。しかし19歳の時に今川義元が織田信長に滅ぼされて

やっと人質生活が終り、その後は信長と同盟を結んで次々と領地を拡げていった。

いわば「若き家康の絶頂期」である。



 そんな家康に試練が訪れる。31歳の時、当時最強の軍団といわれた甲斐国、武田信玄の軍が

天下をとるため駿河国に入り、家康のいる浜松城に迫ってきた。しかし見張りの情報で、どうやら

浜松城には攻めてこずに東三河に進むようだということがわかった。そこでじっとしておれば無事

だったのだが、調子に乗っていた家康は「ここで武田軍を見逃すわけにはいかん。名誉のため

にも戦う!」と武田軍を待ち伏せたのである。ところが家康はまんまと武田軍に挟み撃ちにされて

手も足も出なくなり、全員討ち死にとなった援軍に助けられ、恐怖のあまり馬上から脱糞しながら

命からがら逃げ帰ったという。



 これが有名な「三方ヶ原の戦い」であるが、家康のすごかったところは、この時の恐ろしさを

肝に銘じるために、逃げ帰った自分の姿をわざわざ絵師に描かせ、それを生涯身近において

眺めていたそうである。



    

徳川美術館に残る31歳の「三方ヶ原戦役画像」(左)と、62歳で天下をとった家康



 私にはこんな大それた経験はないが、それでもこの22年間に数々の失敗を重ねてきた。

その中でも重大なものは平成7年の品質クレームと平成19年の重油流出事故の2件であり、

その時のファイルは今も机の目の前の書棚に並べてある。

その他にも数え出したらきりがない。



 おかげさまでリーマンショック後の最悪の状態からほぼ回復したともいえる現在ですが、

子どもの頃を含め今までの数々の大失敗を決して忘れることなく、慎重に、堅実に歩まねばと

あらためて思う節分です。





《参考文献》 ミネルヴァ書房 日本歴史人物伝「徳川家康」より

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