【H27年(2015年)6月のコラム(第174号)】
日経新聞連載小説 「禁断のスカルペル」 最終回(第319回)の挿絵
作: 久間十義 / 画: 板垣しゅん
1.「禁断のスカルペル」終了
「禁断のスカルペル」といきなり書いても「は?なんのこと?」と思われる方が多いかも
しれませんが、これは昨日まで日経新聞の最終面に連載されていた小説の名前です。
「スカルペル」とは手術に使う「メス」のことで、腎臓移植を専門とする女医さんが主人公の
小説でした。日経新聞の連載小説といえば、何と言っても渡辺淳一さんの「失楽園」が
有名ですが、自分的に「ひっかかるもの」と「ひっかからないもの」があり、今回のは
たまたま前者で、毎朝楽しみに読んでいました。
あらすじをざっと書くと、幼い頃に父を亡くしたと母から聞かされていた主人公の女医、
柿沼東子(はるこ)は、結婚して一女をもうけていたが、自分の指導担当医師と男女の
関係になってしまう。それが明るみになって離婚、以後愛娘と一切会うことを禁じられ、
一人東京を離れて東北の伊達湊市の病院に勤務することに。そこで内海純子という、
美しい女子高生に出会い、失意の底にあった彼女は救われる。そして陸奥という外見は
冴えないが実は天才的な医師に出会い、病気腎臓移植のスペシャリストになっていく。
その道を阻んだのが、その分野の権威、大倉東夫(はるお)という東京の医大の教授で、
病気(癌)にかかった腎臓の移植は倫理に反すると厚労省を巻き込んでの大妨害に遭う。
実はその大倉教授は、自分が子どもの頃に死んだと聞かされていた、実の父親であった。
しかも厚労省の調査官として派遣されてきた医師がなんと元不倫相手の上司という、
有り得ない設定の小説である。その相手と、自分を救ってくれた美少女は、はかなくも
東日本大震災で亡くなってしまう。そして震災後、不治の病として東京から送られてきた
中学生の少女が、自らの不倫がもとで会うことさえ許されなかった実の娘だった・・・。
こういう信じられないような設定の中で渦巻く人間関係が描かれた小説ですが、
「人間が、“生かされている”ということの意味」が込められていたように思います。
最終回に、こんな一節がありました。
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そう言いながら娘は、ふと、思い出したように内海純子の父親の言葉を繰り返した。
「内海先生は、『私は一人じゃない』って仰っていましたよね。亡くなった娘さんや、
その他多くの人との記憶を共有していて、その記憶がなかったら、内海先生は
内海先生じゃないって。『私というのは彼らの記憶そのものなんですよ』って・・・。
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僕はこの一節に心を打たれました。今、ここにある自分という存在は、今まで自分が
関わり合ってきた方々との“記憶そのもの”なのだと。
昔、弁護士の中坊公平さんも「人生は思い出づくり」だとおっしゃっていました。
後ろを振り返る人生という意味ではなく、思い出の数々こそが自分の人生そのもの
なのだという意味で、とても心に残りました。
人との出逢い、思い出を、あらためて大切にしていきたいと思います。
彦根市、庄堺公園の満開のバラ園(5/24撮影)
田植えを終えたばかりの、多賀町の美しい田んぼ(5/30撮影)
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